ダイヤモンドの輝き
金の輝き
プラチナの光沢
光り輝くものには、魅力があります。
好きな方は、たとえ高価であっても、その対価で得られる価値を求めます。
ただし、
ダイヤモンドの原石
金の自然な状態
プラチナの自然な状態
を、そのまま、得ようと思う方は、そこまで多くないのではないのでしょうか?
原石や自然な状態から、自分が欲している輝かしい状態までの、道のりが長いこと、そして、そもそもその工程すらも知らない。
だから、原石や自然な状態のモノは、特に欲しくないけれど、輝かしい状態が欲しい
では、原石の状態からどのような工程を踏んで、その輝かしさがあるのかを知って、身につける、所持するのと、
全くもって知らないけれど、ただ輝いているから身につけている、所持するのでは、
そのモノに対しての、愛着や価値というものは、変わるものなのでしょうか?
そして、両者が見る、『輝き』は同一のものでしょうか?
僕は、それらを身につけていないし、所持もしていないので、分かりませんが、
磨き、育てる事で、輝きはしないかもしれないけれど、ダイヤモンドや金と同じくらい、状態や質が変わるだろうと思っているモノはあります。
それに関しては、愛着、価値、『個人的に感じる輝き』は、同一ではないと思います。
原石を磨き、輝かしいモノにするには、
まず、原石がどのようであるか、今の状態を認識する必要があります。
どの部分を削り、そして、どれくらい磨く事が必要か。
この時点で、こんな原石からは、輝きは生まれないと諦めたら、それはただの石ころです。
誰が、どうして、その原石を磨こうと思ったのかは、定かではないですが、
Google先生に聞いたところ、だいぶ話が長くなりそうなので結論はわかりませんが、
やはり、最初からその輝きが注目されていたわけではなかったようです、むしろその硬さに注目があったようです。
何かしらのきっかけがあり、その輝きにちゅうもくが集まり、そして、その原石に可能性を感じた人たちがいくつもの研鑽を重ねた結果、今のダイヤモンドがあるのでしょう。
その輝くであろう可能性に注目をして、実際に磨く。
1番身近で、1番磨きやすい原石に注目しないのは、ちょっとばかりもったいないですよね。
最初は、ただ握る事しか出来なかった、手と五本の指、今では、指一本一本をそれぞれに動かせたり、出来る方はピアノや裁縫なども出来るでしょう。
随分と細かい事ができるようになりました。
では、足の指はどうでしょうか?
右足を動かそうと思えば、右足が動く
当たり前のようだけど、それだって、少なからず原石を磨いた結果です。
その延長線上には何があるのか?
その輝きの可能性はどこまで続くのか?
興味ありません!?(笑)
まずは、原石とじっと対峙する。
そして、可能性を信じて注目してみる。
まずは、そこから。